百裂脚

さて痩せるぞと意気込んで具体的に何をやっているかというと筋トレをしている。

パターンAは普通に腹筋を50回やったあと、間髪いれず1回の屈伸に10秒くらい使うゆっくりとした腕立て伏せをして、とどめにもう30回、ツライ腹筋をするというもの。ツライ腹筋というのは普通の上体起こしじゃなく、仰向けに寝転んで足を天井に向けて上げたあと、そこから膝を90度曲げて、上半身を膝に向かって繰り返し折り曲げる、傍目に見ると芋虫の痙攣みたいな運動で、とにかくつらいからツライ腹筋と呼んでいる。

パターンBは毎歯磨き時にスクワットを50回と風呂上りのストレッチ。Aに比べると軽い。とりあえずAとBを1日ずつ交互に行っている。夜がかなり涼しくなってきたからパターンCとしてランニングを加えたいところだけど、このごろ帰りが遅くて難しい。走るのは休みの日がいいかなと思っている。

腹筋をバリバリ鍛えると便通がとても快調になる、ということに気付いた。筋トレを行った翌日からトイレのあとのすっきり感が変わったので驚いた。踏ん張る力=腹筋の力だ。食欲の秋、口にするもの全てが美味しくて、食べる量をコントロール出来ないから、せめて排出量をどうにかしていきたい。みたいな。なんか汚い話だな。本当は僕も「今日は早起きして中目黒のハニトー専門店に行ってきました~~」的な日記を書きたいのだけど。

まあハニートーストでもなんでも最後は排泄物になるし、結局何を書いても同じだ。僕の好きな舞城王太郎の小説に「煙か土か食い物」というのがある。主人公の祖母が闘病中、死の苦しみの中で口走る「人間、死ねば燃やされて煙になるか、埋められて土になるか、野生の獣のエサになるかのどれかしかない」というセリフが作品のタイトルになっているのだけど、獣に食われた僕たちがうんこになってしまう可能性まで言及していないのは、作者の良心だなと思う。

smart

小中高、大学と、健康診断を受ければ常に「痩せすぎ」「痩せ気味」のゾーンに属すほっそりした青春時代をすごしてきた僕であるが、社会人になってもりもり体重を増して現在身長178センチ体重70キログラム、何かしら突発的な犯罪を犯したとして目撃者には「中肉中背の男性が…」と表現されるであろう外観になってしまった。太った。

増えゆく自らの体積に危機感を覚えてランニングや筋トレに勤しんでいた時期もあったけれど、ここ数か月は運動という運動をせず、仕事の担当顧客が変わって重い荷物を納品する頻度も減っているから、さもありなんという感じではある。

つい最近、大学時代の写真を眺める機会があった。当時を懐かしむ気持ちももちろんあったけれど、しかしそれより昔の自分のシャープさに愕然としてしまった。写真の中の僕は本当に今と全然違った。今の僕の容姿レベルを1カッコイイとするなら、5年前の僕は40カッコイイくらいある。確かに当時バイト先の本屋の同僚(おばさん)や、足しげく通っていた定食屋のおかみさん(おばさん)、果ては旅先の旅館の仲居さん(おばさん)、などにちょっと意味が分からないくらいチヤホヤされた覚えがある。当時は何も考えていなかったが、今にして思えば、20歳の僕はこれから何か成し遂げるのではないかと期待させられるような、そんな容姿をしていたのだ。

5年後、現在の僕はというと、もちろん何かを成し遂げたわけではない。虫歯があるし視力が落ちてお腹も出ている、足が遅い。あと目がすごい濁ったしいつも眠い。社会に出るということはこれほど大きな代償を背負わなくてはいけないのか。

違う。

虫歯は歯医者で治せばいい、腹は運動して引っ込ませればいいのだ。目が濁っているのは…まあ仕方ないとして、早い時間の就寝を心掛ければ日ごろの眠気もきっとなくなる。全て何とかできるのに、そうしなかったのは僕自身の責任だ。輝ける可能性を取り戻すために、何かを成し遂げてやるために。あとおばさん以外、ちゃんと若い女の子にもチヤホヤされるために。僕は再び、痩せることにする。

1582

引越しをして家具を揃え、おまけにうさぎまで飼い始めて新しい生活をスタートさせたはいいがインターネットの手配までは手つかずで今日まで過ごしてしまった。先日やっと契約を済ませて機器の取り付けも終わり、ただいまインターネットという感じ、みなさんいかがお過ごしですか。もちろん自宅にネット回線がない間も携帯端末でワールドワイドウェッブには入り浸っていたけれど、やっぱり僕にとってインターネットはパソコンこそがその入口であってこういう日記もスマートフォンからは書きたくない。夜中に背中を丸めて熱いキーボードを叩くのが粋なのですね。

近況として、まあここ半年くらいの間にけっこう色々あったけど、うさぎについて書きたいのでうさぎについて書く。そう、うさぎが本当にかわいい。エサの時間の前にはテンションが上がって跳ねる。うさぎだから跳ねるのは当たり前なんだろうけど、なんというか、慣用句的な「うさぎが跳ねる」じゃなく、リアルな動物の躍動が目の前で展開されるのはけっこうグッとくるものがあって、毎回新鮮な気持ちで眺めている。バタバタ動いていても、撫でるとスッと大人しくなって身を寄せてくるのも良い。

僕は動物の写真の横に人間が勝手に考えたセリフが書いてあるようなものがすごく苦手で、例えばそういうポストカードなんかが売られているのを見ると「人間のエゴ……」と思ってしまったり実際小さい声で言っちゃったりしてしまう人間なのだけど、うさぎを飼い始めてからそんな傲慢なアテレコをしてしまう人の気持ちも徐々に理解できるようになってきた気がする、というか、今現在既に撮影したうさぎの写真を見ながら「こいつ『おなか減った』とか考えてそうだな…」とか思ったりしているので、自分が思っているよりかなり危ないところまで“来て”しまっているのかもしれないな、と思う。

うさぎの写真をこの日記に載せるようになったら黄色信号、セリフ付きでアップし始めたら赤信号である。その時は問答無用で僕を殺して欲しい。こういったことは理性のあるうちに書き残しておかないといけない。うさぎのセリフに変な語尾をつけ始める前に、息の根を止めてほしい。

チーズ

後輩くんが本格的に会社に来なくなってしまったので今までないくらい忙しくなってしまった。木、金と東京・福島出張を終えて土曜日にたまっていた仕事を片付け、日曜日は実家に帰って祖父の一周忌の法事…と休む間もなく動き続けていたら完璧に体調を崩して昨日まで喉の痛みと戦っていた。薬の力を借りて今日はなんとか久しぶりにアルコールを嗜めるくらいにはなったけれど、これ薬が切れたらどうなるのかな、と少し不安でもある。

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祖父の法事は祖母の姉妹、祖父の兄弟も集まって盛大に執り行われた。

集まった親戚が持ってきた思い出の品々にはものすごく古いものがたくさんあってわくわくした。写真は祖母の祖父、つまり僕のひいひいおじいさんの世代だそう。一番右が僕の曾祖父母とのことだけど、この流れの末端に僕がいることを思うと単純にすごいなあと思う。今まで家族の集合写真、というか旅行先でもイベントごとでも写真自体あんまり撮っていなかったけれど、こういう風に後世にのこることを考えると、もっとどんどん撮っていった方がいいな、と思った。

星の海

福島までの出張は途中で東京の取引先に寄るために新幹線を使うことになった。在来線岡山駅まで出て、改札の傍のキオスクで慌ただしく土産を買った。店員が領収書の発行に手間取ったために新幹線のホームに着いたのは発車時間の三分前だった。自由席車両の乗客の列は既に二度ほど折り返されていて、東京まで立ちっぱなしは流石に辛いなと思ったけれど、蓋を開ければ車内はガラガラだった。車両の中ほどにある三人掛け座席の通路側に座った。
目的地まで3時間半、スマートフォンをいじる、小説を読む、音楽を聞く、眠る、選択肢はたくさんあったが、膝にかけた仕事用のコートに毛玉が無数にくっついていることに気づいたので、とりあえずそれらを取り除くことにした。改めて眺めると、よく今まで気にならなかったものだと自分で感心するくらいコートは毛玉だらけだった。散らばる小さな毛の塊は柔らかい束状のものから硬く爪の先で毟らねばならないものまで形状は多岐に渡り、その数は無限だった。摘んでも摘んでも毛玉はそこにあった。毛玉取りの作業に終わりなどなかった。終わらせることはできるけど。
真っ黒なメルトンにしがみつく白い小さな毛玉たちはさながら大宇宙に浮かぶ数多の星々のようで、いつしか毛玉取りに没頭していた僕の指先はアストロナッツ状態、いや、星屑惑星小惑星をその指に摘み集めているのだから宇宙の全能神といえば良いか、よくわからないけれどとにかく壮大な気分になった。
夜空の星を眺めるともなく眺めていると、視界の端に薄く、小さく光る星がある。はっとして視線の焦点を合わせると、そこには何やら星のようなものが、あるようなないような、目を凝らせば凝らすほど光は闇に溶けていって、そもそもそこに星なんかあったのか……? というような経験、おそらく誰にもあるのではないかと思う。黒いコートは夜空であり、毛玉は星なので、毛玉取りの作業においても上記と同じような「光の見失い」は頻発する。目の前の宇宙そのものに目が眩み、既にたくさん毛玉を取ったという事実だけが指先の感覚に残ると、本来なら摘まれて然る毛の塊も簡単に看過されてしまう。あれ…これは…毛玉……? いや…でも元からこんなだったような…?  
そんなときは一度目をつぶるといい。瞼の裏に広がる自分の中の宇宙に目を向け感覚をニュートラルに戻す。第三者的な視線を意識する。目には目を、宇宙には宇宙をぶつける。瞼を開けると、なんということだろう、毛玉のビッグバンが広がっているではないか。勘弁してほしい。

漆黒の海で星を摘み取る作業は結局新大阪に至るまで続いたが、新幹線の車内で3時間ひたすらコートの毛玉を取っている人間の人間的なつまらなさに気付いてはたと手が止まった。
コートは心なしか軽くなったがそれなりに綺麗になって良かった。東京は寒い。


痛みと紛失について

6度目の歯医者。

神経を治療した部分がまだ不安定なので、今後も当分通院が必要だそうだ。歯の根の奥の部分をゆっくり広げて完全に薬が浸透するようにしてから、やっと本格的に塞げるようになるらしい。先生曰く「万が一痛くなったら自分で仮の蓋を外してください、外せばすぐ痛みが逃げますんで」とのこと。そんな緊急脱出みたいな応急処置方法があるのか。初めて見たけど詰め物の実物は楔みたいだった。

 

昨日は職場の大事な鍵を失くしたとのことで、彼女がかなり焦っていた。

これは僕がずっと感じていることなのだけど、「ものを失くした時のショック、焦り」と「見かけではわからない、目立つ外傷のない痛み」、この2つは、それを被っている当の本人の感じている切実さが、周りの人々にはなかなか伝わらないというか、軽視されやすい。当人と周りの温度差が大きくなりがちだと思う。

A「○○失くしちゃって…今探してるんだ…」

B「じゃあおれの貸してあげるからそれ使いなよ」

例えばこのやりとり、Bさんは一見優しいのだけど、Aさんが問題にしているのは「今○○が使えない」ことではなくて「自分の○○がどこかにいってしまった」ということだったりする。僕はよくものを失くすので、こういう場面に遭遇して「ありがたいけどそういうことじゃないんだ…!」と思うことがよくある。

痛みについても同じで、周囲の人間にそのままの痛さを伝えるのがとても難しく、例えば「歯がすごく痛い」という言葉と、実際にその瞬間に感じている痛みとの間に、かなり距離ができてしまうことがある。周囲の人間には「なんだよ歯痛ぐらいでーちゃんと歯磨けよー」くらいの反応で受け流されてしまって、お前らそんな軽く見ているけど今この瞬間に僕とボディチェンジしたら痛みで悶え苦しんで絶対早退するからな、それぐらいの痛みだからな実際…、みたいに思うことも、今まで幾度となく経験してきた。

こういうのが積み重なると「結局他人は他人、最後に頼れるのは自分だけ…」って感じで思考が諦めに傾いてしまうのでよくない。

というわけで、僕は「痛みを感じている人」と「ものを失くしている人」には、普通に困っている人へ接するときの2倍くらい親身になることを心がけている(普通に困っている人、というのがどんな物差しなのか自分でもよくわからないけど)。まあ所詮他人なので、倍を意識してもたぶん当人の切実さには全然足りない。しかし痛切に困っている、苦しんでいるのにそれが伝わらないのは悲しいし、他人なんか頼ってられるか、という考えに至るのは寂しいことだから、「周りの人間」の側になったら出来る限りのことをしよう、と思う。

今回も一緒になって探して探して、鍵は結局彼女の職場で発見され事なきを得た。

見つかって本当に良かった良かった、と2人で喜んだ。

生活

シャンプーとリンスは量販店での特売のかかりやすさから鑑みて断然メリット派なのだけど、今日いきつけのスーパーに行ったら「リンス」と「リンスのいらないメリット」しか棚になく肝心のシャンプーが見当たらなかった。リンスのいらなさが売りの製品の隣に同シリーズのリンスだけ置いてあるのはなんだかムズムズする。だってリンス要らないんでしょ、シャンプーだけならまだしもリンスだけはおかしい、リンス単体で置くならちゃんとバランスとってシャンプーも置いて欲しい…、というのが僕の意見である。

この状況でメリットリンスを単体で買う人間がどこに居るのか、という感じだったけれど、詰め替えを考えるとリンスとシャンプーは別々で買わざるを得ず、結局精算前の買い物カゴの中にはメリット(リンス)(特売)といち髪(シャンプー)(こちらも特売)が仲良く並んでいた。リンス単体で買う人間はなんと自分自身だったのだ…!! なんか星新一ショートショートみたいだな、と思いながら家に帰った。